【羽田平和記念祭】

 

現在戦後60年以上がたちこのような歴史が風化しようとしているなか、羽田ボランティア推進の会では毎年9月21日の日に旧住民、地域の人々を交えて当時をなつかしみ又親睦を兼ね、過去の歴史を再認識しようと羽田平和記念祭として行事を行なっています。

当日は平和の鳥居に、いろいろな感想、意見、夢などを書いた短冊を笹竹につけて飾ります。 

 

羽田平和記念祭


謹啓、皆様には時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げますと共に日頃のご厚誼に厚く感謝お礼申し上げます。

羽田ボランティア推進の会では、毎年9月21日に羽田平和記念祭を開催いたしておりますので宜しくお願い申し上げます。

羽田の地元は元より、日本全国の皆様方に親しまれております大鳥居、題して平和の大鳥居と名付け位置付けております。ここで大鳥居の由来と羽田の歴史をご紹介させていただきます。

赤い大鳥居は、昭和4年に京浜電鉄(現在の京急グループ)から羽田穴守町にあった穴守稲荷神社に奉納されましたがその後、昭和20年9月21日の日に48時間以内の強制立ち退きが命じられ当時対象となった住民、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の約1,200世帯、3,000人余りの住民は、町を米軍に接収され、羽田の東京飛行場の引き渡しを命じられ、三つの町は一夜にして跡形もなく破壊され赤い鳥居だけが残ったのです。

穴守稲荷神社に放棄された大鳥居を壊そうとすると事故が相次いだのです。工事にかりだされた労務者が鳥居のてっぺんから二度も足をすべらせて落ち、米兵も機械に挟まれて亡くなりました。そのため工事は中止されましたが、たたりの赤い鳥居と異名付けられだれも鳥居に近寄らなくなってしまいました。しかし、この赤い大鳥居は三つの町の歴史を守ってきたのです。

三つの町の歴史とは、江戸時代に名主の鈴木弥五衛門が新田開発のリーダーとなって名乗りを上げ、要島と呼ばれる浅瀬を中心とし地域を新田開発し干拓し開墾し羽田漁師町や農業を営み暮らす為の生計を立て、血と涙と汗の結晶で築き上げた、羽田の先人たちの偉業の大地です。明治時代に入ってから明治27年には、この地に鉱泉が湧き出たことがあって旅館、料亭、酒屋、春には潮干狩り、夏には海水浴場の絶好のレクリェーションの地になって賑わい、羽田間に電車が開通し穴守町まで走っていました。競馬場も有って町は栄えていました。そんな平和な時代があったのですが、国が愚かな侵略戦争を企て、神の国といって大義を主張し国民をあざむき、他の国を攻め奪い最後我が国は敗戦となったのです。羽田はその戦争の悲劇と空襲に加え、こうした終戦後の大波をもろに受ける羽目になったのです。私たちはこうした羽田の歴史を考え見ると、羽田の先人達の築き上げた偉業の大地に宿る魂が生き続いていることを痛切に感じるので有ります。先人達が培ってきた長い歴史の礎には、何ものにも替えがたい歴史があると言っても過言ではないと思います。

現在、羽田空港の目覚ましい発展と空港の歴史があるのもそうです。羽田の先人達が血と汗と涙の結晶で築き上げた羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が有ったからです。戦後65年を迎え今日を生きる私達、羽田ボランティア推進の会は、空港内旧羽田穴守町から平成11年2月4日に移設になった大鳥居に羽田の先人達の偉業の大地に相応しい、平和の文字の入った額を平成11年7月18日に奉納させて頂きました。以来平和の大鳥居、周辺の清掃活動や平和の大鳥居の管理、又住民57,400名の空港内大田区指定避難場所の掲示板を設置し羽田の住民の安全を願い活動に従事し維持存続し守って来ました。その甲斐があってその年の5月28日に大鳥居を囲ってあった柵を空港長と空港事務所側で撤去してくれました。鳥居は自由にくぐるために有るのであって柵で囲うものではないと言う事を理解してくれました。これを期に羽田平和記念祭に際しまして記念樹(桜の木)を植樹し大鳥居に平和の祈りを込めて平和の鈴を奉納させて頂きました。ユニセフ募金を通じて世界平和への共存共栄に貢献し今は亡き羽田の先人達が血と涙と汗の結晶で築き上げた偉業の大地の歴史と文化を命ある限り存続させ、後世に伝えていく所存でおりますゆえ、平和の大鳥居に対しましてご理解とご協力のほどを宜しくお願い申しあげまして、羽田平和記念祭のご挨拶とさせて頂きます。

謹白

 

経済が世界を支配し、核兵器や武力が正義を主張する時代に終止符を打ち、

心豊かな伝統文化の心を育む平和な国づくりを大切にして行こうでは有りませんか。

 

2009年10月24日 羽田ボランティア推進の会




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