【平和の大鳥居の由来】

 

 大鳥居は、1929年(昭和4年)に京浜電鉄から羽田穴守町にあった旧穴守稲荷神社に奉納されましたが、しかし昭和20年9月21日米軍に町を接収された時に余儀なく穴守神社が、この鳥居を放棄したのです。のち京浜電鉄は現在京浜急行グループに発展し、蒲田空港間の民衆の足として活躍し業績を成しています。

 

 大鳥居は旧羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町の戦前、戦中、戦後の様々な歴史と文化を伝え、羽田の象徴として平和の文字を掲げ民衆に親しまれており、世界の恵まれない子どもたちのためのユニセフ募金活動に貢献し、国際平和社会の役割として過去・現在から未来を展望し、世界を担う平和の大鳥居として現在に至っております。

 

 以下に、大鳥居に平和の文字の額が掲げられたことと、人として守り実行しなければならない大切なことを、歴史と真実を通して伝えていきたいという思いを述べます。

 

 現在の「平和の大鳥居」のある周辺は、第二次世界大戦前、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という三つの町からなっていました。この三つの町には約3,000名の人々が住んで生活をしていました。

赤い大鳥居は1929年(昭和4年)に京浜電鉄から羽田穴守町にあった穴守稲荷神社に奉納されました。「大田区近代文化財」に記載されています。

尚、羽田空港1丁目2丁目は羽田鈴木新田跡(史跡)大田区指定文化財となっており広域避難場所に指定されております。

 

 1945年(昭和20年)8月、日本が戦争に敗け、アメリカ(進駐軍)はこの土地を接収し空港を拡張することにしました(日本戦後の復興)。しかし、空港拡張はその町に人々が住んでいたのでは造ることが出来ません。そこで進駐軍と当事の蒲田区区長からの緊急命令で、鈴木町、穴守町、江戸見町に住んでいる人々全員に、1945年(昭和20年)9月21日の日、24時間以内に、その土地を出ろと言う緊急立退き命令が出されました。

日本は敗戦国なのでその命令に反対する事も出来ません。しかし24時間以内では立退くにあまりにも時間が足りません。住民交渉の結果1日延びて48時間以内の立退き命令となりました。1945年(昭和20年)9月21、22日の両日は住民にとって大変慌ただしい日となりました。

持ち出せる家財、おしくも置いてゆかざるを得ない物、戦争で焼けて何も無い時代、全てを持って行きたくてもそれが出来ないのです。男衆はそれぞれ自分の住んでいた家を解体し、その材料を確保します。当座の落着き先のある家族はそこにバラックを建てさせてもらうためです。親類、知人を頼る人それら一時しのぎにせよ生活の場所が確保できた人達はまだ良いのですが、それも出来ない人達、途方に暮れる人達もいました。それでも48時間後には、住みなれた土地を離れたのです。

敗戦の上、さらに退去命令で悲惨な思いをしたのです。 

 

 当事対象となった住民、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の約1200世帯、3000人余りが退去した後、3つの町は一夜にして跡形も無く破壊されました。このとき、羽田穴守町に有った穴守神社が放棄した赤い鳥居だけは此の土地に残されていました。

その後、穴守稲荷神社に放棄された大鳥居を米軍が壊そうとすると事故が相ついだのです。工事にかりだされた労務者が二度も鳥居のてっぺんから足をすべらせて落ち、米兵も機械に挟まれて亡くなりました。そのため工事は中止されましたが、たたりの赤い鳥居と異名を付けられだれも鳥居に近寄らなくなってしまいました。此の土地を築き上げた御先祖様をないがしろにした結果であり、決して崇り(たたり)の鳥居では有りません。此の土地の歴史を鳥居が守り伝えているのです。

(参照:「東京今と昔 - 巷にみる祭り・伝説・年中行事」山本富夫著自警文庫) 

 

 その後、羽田空港の沖合い展開事業完了後も穴守稲荷神社に放棄された赤い鳥居は放置された状態でしたが、1999年(平成11年)2月4日、電波障害になるという理由で、旧羽田穴守町から旧羽田鈴木町(現在の大鳥居の場所、弁天橋横)に移設されました。

 

 三つの町の歴史とは、江戸時代に名主の鈴木弥五衛門が新田開発のリーダーとなって名乗りを上げ、要島と呼ばれる浅瀬を中心とし地域を新田開発し干拓し開墾し羽田猟師町や農業を営み暮らす為の生計を立て、血と涙と汗の結晶で築き上げた羽田の先人たちの偉業の大地です。

明治時代に入ってから1894年(明治27年)には、この地に鉱泉が湧き出たこともあって旅館、料亭、酒屋、春には、潮干狩、夏には海水浴場の絶好のレジャーランドの地となって賑わい、羽田間に電車が開通し穴守町まで走っていました。競馬場もあり町は栄えていました。

そんな平和な時代があったのですが、国が愚かな侵略戦争を企て、神の国と言って大儀を主張し国民をあざむき、他の国を攻め奪い最後我が国は敗戦してしまったのです。羽田はその戦争の悲劇と空襲に加え、こうした終戦後の大波をもろに受ける羽目になったのです。私たちはこうした羽田の歴史を考え見ると、羽田の先人達の築き上げた偉業の大地に宿る魂が生き続いている事を痛切に感じるので有ります。先人達が培って来た長い歴史の礎には、何ものにも替え難い歴史である。

 

 現在、羽田空港の目覚しい発展と空港の歴史があるのも、羽田の先人達が血と涙と汗の結晶で築き上げた羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が有ったからです。戦後65年を迎え今日を生きる私達、羽田ボランティア推進の会は、空港内旧羽田穴守町から1999年(平成11年)2月4日に移設になった大鳥居に、羽田の先人達の偉業の大地にふさわしい平和の文字の入った額を1999年(平成11年)7月18日に奉納させて頂きました。

 

 以来平和の大鳥居、周辺の清掃活動や平和の大鳥居の管理、又、空港内大田区指定避難場所の掲示板を設置し羽田の住民の安全を願い活動に従事し維持存続し守って来ました。その甲斐があって2007年(平成19年)5月28日に大鳥居を囲ってあった柵を当時の空港長が撤去してくれました。鳥居は自由にくぐるために有るのであって柵で囲う物ではないと言う事を理解してくれました。

 

 ユニセフ募金を通じて世界平和と共存共栄に貢献し今は亡き羽田の先人達が血と涙と汗の結晶で築き上げた偉業の大地の歴史と文化を命ある限り守り存続させることが私達の使命であると同時に未来の子供達に伝え後世に残したいと思います。 

 

 現在、三つの町で人々が生活をしていたという証になるものはこの大鳥居と、強制立退きの日、住民の一人、村石鈴ノ助氏が植えたハンの木があります。現在の空港跡地は、戦前、鈴木町、穴守町、江戸見町の三町があった場所です。そこに住んでいた人達にとっては、とても思い出のある古里の場所です。 

 


・・・・・・・・・・     みんなの羽田ボランティア推進の会 公式サイト     ・・・・・・